エレクトリック・ギターの創生期

リッケンバッカー・インターナショナル・コーポレーション(RIC社)は、ロサンゼルスのエレクトロ・ストリング・インストゥルメント・コーポレーションを基盤として、電気楽器とアンプを製造する目的として、創設されました。1931年にアドルフ・リッケンバッカー氏とジョージ・D・ビーチャム氏により創設され、この時代の先駆者達は、”リッケンバッカー・エレクトロ・インストゥルメント”の名前で、世界初のエレクトリック・ギターを生み出しました。RIC社の歴史は、69年に渡り現在までも、永遠に繰り返される、若者達の文化をも変える音楽シーンの最先端に君臨しています。1930年代のハワイアン演奏者から90年代のジャズ・ベーシストに至るまで、またビートルズやバーズからMTVに登場する現代のロックグループに至るまでプレイされるリッケンバッカーのよく鳴り響くサウンドは、我々がよく知る音楽を確立するのに貢献してきました。その栄光に止まる事なく、RIC社は今日もミュージシャンに可能な限り最高の楽器を提供し、エレクトリック・ギターの音楽に対する変革を点火させ、推進し続けるのです。

それは、世界で最初に娯楽の中心地と呼ばれた1920年代のロサンゼルスで始まりました。スティール演奏者のジョージ・ビーチャムは、当時の多くの仲間と同じく、より音の大きな品質のよりギターを捜し求めていました。 何人かの発明家は、アンプに取付けるスピーカー・ホーンの様にメガホンを加えて、より大きな音が出せる楽器の製作に着手していました。ビーチャムは、これを見かけて、ビーチャムにそれを製作してくれる人を探しました。ロサンゼルスの自宅から程近いショップで、バイオリン修理の職人として働いていた、ジョン・ドピエラ氏に出会いました。

ドピエラ氏と彼の兄弟のルディ氏は、ジョージの希望をかなえるために、最初ビクター蓄音機のスピーカー・ホーンを底部に取り付け、観客に向けてスタンドに取付けました。これは上手くいかなかったので、ドピエラ兄弟は、ギター・ブリッジに薄く、コーンの様なアルミ製の増幅器を取り付け、メタルボディに固定する実験を始めました。
このプロト・タイプは、3つの増幅器(その後すぐ”トリコーン”と呼ばれました)を取付ける事で成功し、結果に満足したビーチャム氏は、ショップで既にギターの製造に取りかかっていたドピエラ兄弟と工場を作る事を提案しました。投資者を見つける為に、ビーチャムは億万長者で義理の従兄弟のテッド・クラインメイヤー氏主催の盛大なパーティに、トリコーンのプロト・タイプと世界的に有名なハワイアン・グループのSol Hoopii Trioを連れて行きました。クラインメイヤー氏は、ギターと新会社設立の見通しをいたく気に入り、ビーチャム氏にその夜12,000ドルの小切手を手渡しました。

メタル・ボディ製ギターの実質的な生産は、程なく始まりました。 ビーチャム氏は、ジェネラル・マネージャーに就任し、熟練した有能な職人を何人か雇い入れました。その中には、彼の家族とドピエラ家の人々も含まれていました。彼は機械を購入し、新工場をアドルフ・リッケンバッカー氏の工具ショップの近くに設置しました。リッケンバッカー氏(友人の間ではリックとして知られていた)は、多種多様な製造工法に精通した非常に腕のよい製造技師でした。スイスに生まれ、彼はまた第一次世界大戦の撃墜王エディー・リッケンバッカーの親戚でした。ナショナル社にメタルボディを生産する為の設備を十分そなえたアドルフは、西海岸で最大級の掘削プレス機械を一台所有し、すぐにナショナル社にその技術が認められるようになりました。
不幸にも、仲間同志の言い争いの種は最初から蒔かれていました。1928年の後半までにドピエラ家は会社の経営と財務に、非常に不満を感じるようになりました。ジョン・ドピエラ氏は当然自分こそが発案者だと思っていたのですが、皮肉にもビーチャム氏が新しいアイディアを実験するのに時間を浪費していると考えていました。ドピエラとビーチャムは、2つの異なった世界に住む人間であり、明らかに個人的にも、仕事の上でも、社交的な付き合い上でも、言い争っていました。彼らがお互いに上手く働けなかったのは、最初から分かっていた結末なのです。もう一つの問題は、テッド・クラインメイヤー氏が21歳で100万ドルの遺産を受け継ぎ、それを30歳(その時にはもう100万ドルの遺産を受け取るはずだった)になるまでにすべて使い果たそうとしていた事でした。予想していた以上の速さでお金を散財していった1920年代の血気盛んな浪費家は、ビーチャムにナショナル社の引き出しから現金を引き出す事をけしかけ始めました。ジョージの失敗は、彼が回りの人々、特に友人と会社の社長を説伏せる事が出来なかったことでした。

ジョン・ドピエラ氏は辞任し、ドブロ・コーポレーションを設立しました。ドピエラ兄弟は結局法廷和解に大半は勝利したでしょう。その後テッド・クラインメイヤー氏は、殆ど破産状態で(相続にあと数年は要したため)、もう一人のドピエラ兄弟であるルイスに彼の所有する経営権を売買しました。その騒動の中で、ビーチャムと数人の職人は、解雇されました。そこでジョージは新しいプロジェクトと会社を早急に必要としました。

当時彼の行った数々の業績に加えて、彼は数年間エレクトリック・ギターの可能性について考えていました。エレクトロニクスについての専門知識はなかったが、PAシステムとマイクロフォンを使って1925に既に実験を始めていました。初め彼は2X4サイズの板と、バンスウィック社の蓄音機ピックアップを使って1弦方式のテスト用ギターを製作しました。この経験が彼の考えを決定づけ、彼を正しい道へ導きました。ナショナル社を退社後、彼は自宅で熱心に研究に打ち込みエレクトロニクスの夜間学校へ通いました。

1930年までに電気学に馴染みのある多くの人は、磁界を通り抜ける金属は磁界を乱し、近くにあるワイヤー・コイルによってそれが電流に変るという事を知りました。発電機と蓄音機のピックアップにはこの法則が様々に適応されました。ギター・ピックアップを製作する上での問題点は、弦振動を直接電流に置き換える実用的な方法を生み出す事でした。数ヶ月の試行錯誤の後、ジョージは2対にホースシューマグネットから成るピックアップを開発しました。弦はこのマグネットの中とコイルの上を通り抜け、ピックアップは、それぞれの弦に磁界を集中する6個のポールピースを持っていました。(ダイニングテーブルの上で作業をする時、彼はコイルを巻く為に自宅の洗濯機からモーターを取り外して使用していました。ビーチャムを手伝ったポール・バースによれば、最終的にミシンのモーターを使用したとの事です)
ピックアップがほぼ完成した時、ビーチャムはナショナル工場長であった熟練工であるハリー・ワトソンに電話し、それ用の木製ネックとボディを作るよう依頼しました。

数時間後、小型の手工具、やすり等で削られた最初の完全なエレクトリック・ギターの原形が完成しました。それは外観上の理由で、フライング・パンと名前を付けられました。生産に危惧したビーチャム氏は友人のアドルフ・リッケンバッカーの協力を得ました。アドルフの協力により、ノウハウ、アイディア、資金は豊富になりました。最初の会社名は、”Ro-Pat-In Corporation”でしたが、すぐにエレクトロ・ストリングスに変更されました。アドルフが社長に、ジョージが会計秘書に就任しました。人々はその楽器をリッケンバッカーと呼びました。なぜならそれがよく知られた名前で(従兄弟のエディーありがとう)、ビーチャムより発音しやすかったからでした。
初期のプリアンプのデザインを手助けしたポール・バースとビリー・レーンの両名は、リッケンバッカー工具の横、サウス・ウエスタン通り6071番地の小さな借り店舗で生産が始まるにつれて、会社内で少しの財政利益供与を得ました。(リッケンバッカー所有の他の会社は、今だナショナルやドブロギター用の金属部品や、”Klee-B-Tween”歯ブラシ、万年筆、ろうそく立て等のベークライトのプラスティック製品を製造していました)

エレクトロ・ストリング社は幾つかの生涯がありました。時期は最悪ではなかったにしろ1931年は大不況の深刻な影響が宣言され、ギターにお金を使う人は殆どいませんでした。 ミュージシャンは最初に抵抗しました。彼らは電気について全く経験がなく、ただその可能性を遠目に見るだけでした。
特許事務所はフライング・パンが電気製品なのか楽器なのかどうか知りませんでした。更にその両方に渡る特許分類もありませんでした。多くの競合会社は、また市場にエレクトリック・ギターを参入させようと急いでいました。1935年までは、これらの潜在的な特許違反の全てに対する法的闘争を続ける事は無駄に思えました。

ハワイアン・ギター(ラップスティール)は最もよく知られ、最も受け入れられた1930年代のリッケンバッカーであったでしょう。 初期文献は、フライング・パンの6弦や7弦仕様を図解しています。試作品が木製であったにかかわらず、この両方は同じアルミ鋳造構造を持っています。長年に渡り(このギターは1950年代まで製造された模様)22.5インチと25インチの2種類のスケールが用意されていました。職人はボディとネックに新聞を詰め込んでいました。それは今日ギターの製造年月日を解き明かす手がかりになります。フライング・パンの後すぐに幾つかのスティールモデルが追加発売になり、最もよく知られるのが硬いプラスティックのベークライト製モデルB、後のモデルBDです。初期モデルはボリューム・コントロールと5個の装飾用クロームカバー・プレートを表面に装着しています。1930年代後半には、ボリュームとトーン・コントロールに白に塗られた金属カバー仕様になります。1970年代、デビッド・リンドレーはジャクソン・ブラウンとの数多くのレコーディングにベークライト製スティールを使用し、現代におけるそのオリジナル・デザインの完全さを証明しています。

エレクトロ・ストリング社の最初のスパニッシュ(いわゆる普通の)ギターは、表面が平らのホロー・ボディに小さなfホールとほぞ式の糸巻用ヘッドを持っていました。セル巻きのネックは14フレットでボディに結合されていました。1930年代中頃、コンサート・サイズのケン・ロバーツ・モデル(後にビーチャムのギター演奏仲間の一人から名づけられた)が発売されました。それは、17フレットでボディに結合されたセル巻きネックを持ち、fホール付のぼかしたツー・トーン・ブラウンのトップとカフマン・ビブラート・テイルピース仕様でした。1930年代と1940年代には少なくとも2種類のエレクトリック仕様のアーチド・トップモデルがありました。SPモデルは、メイプルボディにぼかしたスプルース・トップ、ラージ・ポジション・マークの入ったセル巻きのローズネック、そしてホースシュー・ピックアップを装着していました。S−59モデルは、誇らしげなブロンド塗装と幅の狭い、取り外し可能なホースシュー・ピックアップ仕様でした。このいわゆる”リッケンバッカー・エレクトロの単独無比な調整可能ピックアップ・ユニット”は別売りアクセサリーとしても販売され、殆どのfホール・タイプのアーチトップ・ギターに取り付け可能でした。

アーチトップ・ギターが普及していたのにもかかわらず、1935年のベークライト・モデルB・スパニッシュギターは、リッケンバッカーの殆どの歴史を作りました。完全なソリッドではありませんでしたが(それは空洞のある厚いブラスティックと取り外し可能なスパニッシュ式のネック仕様でした)当時の大型アンプで発生するフィードバックを事実上除去する事を結果として達成しました。会場で座って演奏するのが難しい時でも、ステージ上ですべてのソリッドギターと同じく演奏されました。(多くのギターリストが慣れ親しんだベークライトのスパニッシュ・サイズは、ボーリングの玉を入れた袋のようにずっしり重かったようです。ドク・カフマン(後にレオ・フェンダーの最初のパートナーになる)によって考案されたベークライト・スパニッシュには、バイブローラ・スパニッシュ・ギターがあり、あまり格好のよくなくモーター式のビブラート・テルピースを装着していました。余りにも重かったので演奏用の専用スタンドを必要としていました。

エレクトロ・ストリング社は、その創設期からアンプの開発・販売を手がけていました。結局、ギターはアンプと共にのみ使用されました。最初の量産モデルのアンプは、LAラジオショップのバン・ネスト氏によってデザインと製作がされました。それゆえすぐに、ビーチャムとリッケンバッカーは、デザイン技師のラルフ・ロバートソンをアンプ製作に携わせる為に雇用しました。彼は1941年までに少なくとも4モデルの新しい回路を生産用に開発しました。プロフェッショナル・モデルのスピーカーは、ジェームズ・B・ランシングにより設計されました。 初期のリッケンバッカー・アンプは、中でも1940年初期までカリフォルニア、フラトンの近郊のラジオショップで修理をしていたレオ・フェンダーの影響を受けています。

どの様にしてリッケンバッカー・ギターは、1930年代の音楽産業を形成したのでしょうか?ビーチャムには多くの友人があり、娯楽団体に接触し、結果として多くのスターが彼の楽器を使いました。Sol HoopiやDick Mclntyre、2人の有名なハワイアン・スティール・ギターリストの名前だけでも、リッケンバッカーは数え切れない多くの影響を与えたレコーディングで使用されました。Perry Botkinは、ビングクロスビーやハリウッドのスター達と多くのレコーディング・セッションに幾つかのバイブロイーラ・スパニッシュ・モデルを使用しました。レス・ポールはリッケンバッカーを所有していました。エレクトロ・ストリング社はハーポ・マークスという電気ハープも製造していました。リッケンバッカー・エレクトロ・ストリング社の楽器の仲間は、すべて幾つかのホースシュー・マグネット・ピックアップを装着して誕生しました。ギターやマンドリン以外にも、完全な電気ベース、バイオリン、チェロ、ビオラを発案しました。
電気ピアノのプロト・タイプは何年も事務所の向かいの畑に置かれていました。これらの楽器の殆どは、完全に伝統的なスタイルを排除していました。リッケンバッカーは、完全な電子楽器はその音響上の複写としての外観を保持する必要はないと考えていました。この概念の超越−リッケンバッカーの革命の第一段階−が、来るべきデザイナーととしての考えを自由なものにしました。

1940年までに、最初のスタートから15年経過した後、ビーチャムは彼の健康上の理由から、楽器のビジネスに挫折し、幻滅する様になりました。かれの2番目の情熱、釣りや釣竿のデザインが彼の注意を引きつけました。彼は製造方法を探し求めて一つの特許を取得しました。必要な資本を増やすために、彼はエレクトロ・ストリング社の株をリッケンバッカーの簿記係であるハロルド・キネーに売却しました。この後すぐ、ビーチャムは船釣りに出かけ致命的な心臓発作に襲われました。彼の葬儀行列は、2マイル以上に及びました。真の電気楽器の発明者である彼は電気ギターがその最大の可能性を発揮するのを見届けるまで、不幸にも生きられませんでした。

アドルフ・リッケンバッカーは、エレクトロ・ストリング社の短い歴史の中で、それ以外に対する興味を持ち続けました。彼は、彼のパートナー程ギター・ビジネスに真剣ではありませんでした。それにもかかわらず、彼は引き続き楽器を作り続け、1953年に第2時世界大戦後の南カリフォルニアでの音楽ビジネスを率いる名士、FCホール氏に会社を売却しました。この売却は、一つの時代の終焉ともう一つの始まり、つまり現代リッケンバッカー・ギターの夜明けを象徴しています。

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